
YOHJOH (Kameido)
すてる
最初にやったのは、ゴミを捨てることだった。
亀戸の古いビル[1]を借りたとき、各フロアには前の居住者が残した荷物が床から天井まで積み上がっていた。その量は、数十万円規模の廃棄物撤去を業者に頼んでもおかしくないほどだったが、自分たちだけで引き受けることにした。大掃除祭、バリバリ祭[2]。名前をつけて告知すると、思いがけない数の人間が集まってきて、壁を剥がし、床を磨いていた。祭という形式が、いかに建築やクリエイティブに興味のある人間を引き寄せるのか。ゴミを片付けることは、場所を作ることそのものであった。
暫定的に借りた場所は、暫定的には終われない。「ここを最後、誰が片付けるんだろう?」。終わりの責任の所在こそが、暫定であることの裏側の問いだ。


つくる
床が出てくれば、使えるようにする番だ。
キッチンをつくり、作業台を据えた。シルクスクリーンの台を搬入し、大型3Dプリンタを置く。木工工具、旋盤、大判印刷機まで揃え、24時間使えるようにした。ニチレイマグネットの協力で、マグネットを活用した家具[3]も増えていった。食器掛け、窓カーテン、本棚。どれも既製品ではなく、この場のために考えられたものだ。庭はCreative LABに参加した庭チームが設計し、屋上では招かれたクリエイターたちとのパーティが繰り返された。5階にはBlankspaceチームがプロトタイプのPODを設置し、個室として使っている。


雨漏りもした。ネズミ[4]も出た。そのたびに対処したが、計画通りに進んだことはほとんどない。建築史家の加藤耕一は、建築をシェリングやゲーテが用いた「凍れる音楽」という比喩に対して、物質である建築は時間の中でままならない変化にさらされ続けるのだと問い直している。[5]亀戸ガレージの雨漏りやネズミは、まさにその物質性を日々こちらに突きつけてくる出来事だった。完成した彫像のように静止していられる建築などどこにもなく、ここではただ、起きたことに手を動かして応えていくしかなかった。
道具を自分たちで揃えていったのは、その応答のための条件だった。イヴァン・イリイチは、自立共生(コンヴィヴィアリティ)と呼ぶ生き方を守るためには、人々が自分たちで統御できる道具を手にしていることが欠かせないと論じている。[6]工具や機材を業者任せにせず、自分たちで選び、使い、直していく。それを通じて、この場所はようやく自分たちのものになっていった。

えがく
ロゴは、デザイナーコレクティブのneighbyに依頼した。
「養生」という建築用語を引用したYOHJOHというネーミングには、ものをつくる場所を守り支えるという意味が込められている。独自書体を開発し、それをコミュニケーションの軸に据えたヴィジュアル・アイデンティティ。ロゴを構成するオブジェクトは意図的に余白が不揃いで、ガイドラインのほとんどは推奨にすぎない。使い方は決まっておらず、解釈の余地が残されている。ある程度の型を決めながら、自由に使ってもらえる仕組みをつくる。それは計画でありながら、その後の暫定的な想像の責任を負うことでもあった。
「デザインに未来を持てない」とneighbyの望月は言う。軽くて余白が多く、質量のないものが席巻する現代のグラフィックデザイン。そうした「うすらグラフィック」[7]の時代に、YOHJOHのVIはあえて独自書体という重力を選んだ。暫定的な場所に対する、計画的な抵抗だったのかもしれない。

ひらく
2026年4月、YOHJOH[8]はアントレプレナープログラムとして一般に開いた。
30歳以下のクリエイターや起業家を対象に、6名を採択する。使用期間は6ヶ月、利用料は月4万円、水道・光熱・通信費込み。汚していい、壊していい、作り直していい。原状回復不要の解体前のビルだからこそ成り立つ制作環境がある。解体までの時間は最初から決まっているからこそ、この6ヶ月は次のフェーズへ飛び立つための足場になる。暫定であることを、プログラムの条件にした。
わたしたちは日記を残している。この建物を使っている、あるいは最後に使うことになるであろうわたしたちが、ここで何を考え、何をつくり、何を失敗したかを、誰かがいつか読めるようにしておくために。記憶は、いずれ解体されるこの場所に残せる唯一のものかもしれない。借りることは、返すことへの問いを内包している。借りた側にできる返し方があるとすれば、それはきっと、ここで起きたことを誰かに渡せる形にしておくことだ。


